小さな石蘭  久宗睦子

はじめて そのお宅を訪ねたのは
夏
わたしは ある人と川原で渡し舟を瞠め
川に映る影を瞠め
名も知らぬ草の花を摘んだあと
すこし熱く感じる掌を曳いてもらって
土手をのぼり下り したあとだった
病んでいる人を見舞うために という名目の
半日の旅ともいえぬ旅の小さな寄りみち

"石蘭"の名を識ったのは そのとき
病んで長い人が招じてくれた 塵ひとつ無い部屋の
窓辺に飾られた岩に模した小さな鉢の間から
細い葉と可憐な紫の これも小さな小さな花の色の鮮やかさ
寄りみちをしてしまったことの 小さな戦きに
わたしは落ち着かない目のいろをしていたから
病む人には この花にくらべて どんなに まずしく心もとなく見えただろう

「石蘭を育てるのは中々むつかしいものです」
「でもこれはよく咲いているね、じっくりと診てやるからでしょう」
そんな会話をやりとりしている長い交際いと聞く男同士の仲に
入ってはいけない ある厳しい空気がたち込めていて
わたしは小さな岩の間に身をせばめていなければならないと思った

小さな花でも
咲いてよいときも いけないときも あるような
それは わたしにとって育てることが至難な花の名前だと
その日思ったものだった

石蘭を ふたたび見たのは
やはり夏
病んでいた人の部屋は葬いの壇が設けられてしまって
出窓になっていた石蘭の居場所は閉ざされて哀しい

なにかが わたしを呼ぶように思えて
人々の座からそっと抜け出て
庭に面した濡れ縁から 池の畔を見ると
ああ 石蘭は ここに居て ちいさな紫をみごとに開いて
わたしを瞠めてくれていた

逝ってしまった夏 逝ってしまった病の人
けれども逝かずにいる石蘭の眸に ま向かって
わたしが育てている この花のむずかしさを訴えたい
まよったままに咲きそうで咲かない
ふと小さく吐息をつきながら
その日はじめて わたしは とめどない涙をいくつもの夏にむかって
流したのだった 
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